声をかくす人という映画を見て

リンカーン暗殺に当たって、女性の死刑囚がいて、それがアメリカ史上初の女性死刑囚だったということも、この映画によって初めて知った。それと、リンカーン暗殺はそれだけではなくて、副大統領と国務長官の同時暗殺も企てられていたことも初めて知った。
この国家のトップ3が災難に遭ったことによって、陸軍長官であるスタントン(ケヴィン・クライン)が事態収集の為のトップになる。
このケヴィン・クラインが、最近のコメディ、もっと言えば下らない役柄とはガラッと変わった、冷徹な政治家を好演している。なかなか良い。
フレデリックは北軍に従軍していたこともあり、やはり南部の人間に対する差別というか嫌悪意識は強烈に持っている。だから上司的なジョンソン上院議員(トム・ウィルキンソン)から「弁護士として為すべきことを為せ」と説得されても、半分は義務感のみで受け入れるだけ。彼の婚約者のサラ(アレクシス・ブレデル)も同様で、南部の女の弁護をすることになったフレデリックに違和感を覚えながらも、彼を理解しようと、周りの雑音を遮って彼について行こうとするが、それでも最後は理解できないと言って彼の許を去っていってしまう。
このアレクシス・ブレデルという女優、清楚な感じがして、RRが好きそうな出で立ちの人ね。
それにしても、このメアリー・サラットという女性の罪は、今の感覚からしたら死刑になるような重罪ではないのね。
最大の罪は、暗殺組織のアジトを提供したというものだが、「生活の為に」と言う彼女の言い分を、はっきり言い負かしている反論は無い。しかも彼女の罪は(認められていればだが)、現代に当てはめてみれば死刑になる程のものではない。
総ては“国を一つにまとめる”と言うスタントン陸軍長官の思いのままに運ばれた裁判だという流れになっている。
当時のことは想像するしかないが、未だ南北戦争は完全に集結しておらず、“北”の人間にとっては彼らの方程式の中で国をまとめなければならないという空気があったのだと思う。
しかしそれは、彼らの方程式が正義であって、それ以外は受け入れないという態度でもある。
つまり、白か黒かという狭い範囲での選択肢しか示されず、中間のグレーゾーンは一切認めないものだった。
これを歴史だと言うのはたやすい。しかし、最近の日本の政治的な動きにどこか似ている。
議論を白か黒かに特化させて、それしか選択肢が無いように思わせて、決断を迫るというどこかの人がいたよね。ちょっとでも外れていることを言えば、それが反証のための言葉であっても、揚げ足をとってそこばかりを集中して批判する方法。そして悲しいことに、愚民はそれに乗せられてその人を支持するようになる。言葉がたりないが、その景色は(経験はしていないが)ナチスが台頭してきた時代に似ているような気がして、非常に恐ろしい。今はかつてほどの露出度はなくなってきたが、一頃の彼を祭り上げるような報道は怖かったし、今でも彼を報道しない日は無いのではないか。それでも、主張が二転三転する彼を、悪し様に報道する姿勢は見られない。
フレデリックは、友人が言うように「有罪になればお前のせいだし、無罪になれば裏切り者だ」という状況の中で、しかし次第に法の精神に従った行動をするようになる。それが、容疑者達の裁判が軍法裁判で行われ、しかも政治的にシナリオができている中での裁判は困窮を極める。
当時でも民間人を軍法裁判にかけるということに対してはかなり批判があったらしい。
フレデリックはその時の最高権力者のスタントンに、民間裁判への移行を訴えるが、そのスタントンは「(有罪になるのは母でも息子でも)私はどちらでも構わんよ」と言い放つ 彼なりの正義で、国を一刻も早くまとめようとしたのだろうが、フレデリックが言うように(彼の言葉は現代人の共通の認識でもあるだろうが)、法に則らない世界が如何に危ういかを理解できていない。スタート地点が間違っていれば、いずれは破綻が訪れることを。
物語自体も法廷劇の面白さと、人間の哀しさを描いていて、面白く観ることができた。
アメリカ映画ではあるが、今の日本にとって警鐘とのなる作品であるような気がする。

『映画 鈴木先生』

JS103_72A『映画 鈴木先生』を見て、映画は映画として独立させて欲しいなあ。
『映画 鈴木先生』の冒頭、鈴木は妄想しながら通勤しているが(この妄想は彼の持病らしい)、先生が生徒と一緒に登校するなんてあり得るか?
ドラマでは性問題をはじめとして、それなりにタブーだった題材を取り上げてきたようだったが、ここではどうか。
相変わらず(なのだろう)、鈴木の小川に対する妄想は続くが、それは主題とは関係の無い所で進むし、鈴木はデキ婚だったらしいがそれは全然問題にされていない。てか、鈴木の奥さんの名前が“あさみ”ってのは、狙ったものとしか思えない。どうでもいいことだけどね。
てか、この土屋太鳳って、ここではだいぶミステリアスな雰囲気を出しているが、素顔を見るとやはり今時のというか、この年代特有の無邪気さが覗いている。調べてみたら『釣りキチ三平』で、三平の幼馴染をやっていたんだね。4年も経ちゃ、そりゃあ成長するよね。
で、ここで問題になるのが卒業生。
というか、無理矢理問題をここに持ってきているような気がする。
いつも公演でボーっと文化祭の練習する生徒を、どう見ても引きこもりな男(浜野謙太)と、それを無理矢理外に引きずり出している、引きこもりよりはちょっとはましな男(風間俊介)がずっと眺めている。
この、ちょっとはましな男が事件を起こすのだが、それは小川に対して「これからあなたをレイプします」という監禁事件。
その理由は、自分は中学時代は“できる生徒”として遇されていたが、その挙句が社会からの落ちこぼれ。「いい子なんて、競争社会では淘汰されていくだけなんだよ」ということらしい。だから、世の中を見せる為にレイプされることによって、落ちる所まで落ちて現実を知ってこれから力強く生きていってほしいということらしい。
ちょっと、論理の飛躍。
前半で、中学時代、問題児だった白井(窪田正孝)が訪ねてきて、「(鈴木は)優等生しか相手にしてこなかったから、誰も訪ねてくるやつなんかいないだろ」と言われる場面があったが、それは一面的な物の見方というべきだが、あたかもそれが正論のように聞こえてしまう。
この偏狭な男を演じたのが、どこかで見たことあるなあと思っていたら、今の朝の連ドラに出ている人間じゃないか。
鈴木は彼を説得しようと試みるが、それは表面的な綺麗事の域を出ていない。
大体、彼が“落ちた”のは教育だけのせいではないし、それを一中学校教師が解決できる問題でもない。それを物語的になあなあで済ましてしまおうなんて意図が透けて見えるから、恐ろしく底の浅い物語になってしまっている。小学生向けのドラマでやったらいいんだ、こんなもん。
この男が小林を連れて屋上まで行ったときに、隙を見て足子(富田靖子)が飛び込んだのに、他の男性教師はどうしてたんだという場面もあった。
ただ納得できるところもあって、それは立会演説会で出水(北村匠海)が主張していたこと。
選挙は投票した方も責任を持たなければならないというのは、これはまさに正論だね。
今の大人、特に先の衆院選挙を特別な理由も無しに棄権した人間に聴かせてやりたい。

『ダイ・ハード ラスト・デイ』

『ダイ・ハード ラスト・デイ』の物語は、ロシア(旧ソ連)の大物2人の確執にジョンが巻き込まれたもの。
息子のジャックがロシアで収監されたと聞いたジョンは、どういうことか確認しにモスクワへ飛ぶ。そこではユーリ・コマロフ(セバスチャン・コッホ)の裁判が話題になっていた。彼を有罪にして権力の掌握を狙っていたビクター・チャガーリン(セルゲイ・コルスニコフ)という大臣の差し金によるもので、ただしコマロフはチャガーリンにとって命取りとなるようなファイルを持っているらしく、同時にチャガーリンは手下を使ってファイルの行方を捜索している。
ジャックはCIA要員としてコマロフの身柄をアメリカへ移動させようとする作戦に従事していたのだが、ジョンは息子がCIAに入っていることすら知らなかった。
そこで、ジョンはジャックの手助けをしていくというもの。
どうもね~、巻き込まれ型としてはどうなのかねえ。「運の悪さは遺伝する」というのがこの映画のキャッチコピーだが、今回はとってつけたようなもの。
色々な伏線はあるにしても、こういう大枠ですれ違いがあるってのは、やはり最後まで納得して観ていることができない。
でも、こういう能天気なアクションえいがに、それを求めるってのも無理な話かもしれない。

パーマ液でかぶれてしまった!

前回の通っていたとおすすめの美容室のスタッフがやめてしまったので、知らない美容室に行ってみまいした。前回の通っていた美容室ではスタッフさんと仲が良くいろいろなお話ができてほんとうによっかたですが、通えなくなってとても残念です。

美容院でパーマをかけてもらうことにした。若い女性の美容師だった。

最初に、シュシュっと髪にかける液体が、右側の首筋にだらっと流れて来たので「これって水ですか?」と聞くと、水ではないという。

首筋が気持ち悪いので、「タオルで拭きたい」と告げると、暖かいおしぼりをくれた。

ロットを巻き終わってから、タオルを当ててパーマ液をかけたのだが、額に液体が滲んで来て気持ち悪くなった。

我慢しながら座っていたら、男性の美容師がやって来て「タオルが緩んでいます」と言って、ほどこうとした瞬間に、タオルが手から離れて、そのまま顔にすべり落ちた。

つまり、べったりと顔にパーマ液がついてしまった。

しばらくすると、左側のこめかみの辺りが痒くなってきた。お湯で濡らしたタオルで拭いたけれど、一向に痒みが治まらない。

「ごしごし洗った方がいいですかね?」と聞くと、その方が良いというので、シャンプー台のお湯を流して何度もこすって洗い流した。

その美容師は誘導尋問のように、「今日は体調が悪いですか?」「きのう顔剃りをしませんでしたか?」と聞くので、「あの男性が手を滑らせたので、顔に液がついてしまったのよ!」と怒って店を出た。

それから1時間ぐらい買物をして、ふと鏡を見ると、赤くはれていたので、美容室に戻った。

「こんな風になってしまった!」と怒ると、店員は、「病院に行ったほうがいい」と言った。

あいにく店長が休みなので、自分達だけでは何も判断ができないのだという。

とりあえず、店が常備している薬をくれた。それから、お詫びということで、トリートメントを1本くれた。

私は、「こんな風になるなら、途中で帰ればよかったわ。明日になっても治らなかったら電話しますから、今日のことは、ちゃんと店長に伝えておいてね!」と言って帰った。

パーマ液でかぶれるなんてことが、やっぱりあるのだ…。ひと月もすれば治るのだろうか、治らなかったらファンデーションで隠せばいいのかな、そんなことを考えながら、また買物を続けた。

『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』は漫画も好きだ

映画『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』は日常の生活はよく描かれているように思う。
すーちゃんとまいちゃんは仕事に対する不安や不満があり、さわ子さんは自分が出て行った後の、祖母を一人で面倒見なければならなくなる母の身を案じている。
大きな事件は起きないのだが、他人から見ればちょっとしたことを掬い取って、こういうのあるよなあと思わせる手法が上手い。3人のそれぞれの不満をただ並べるだけでは時間も足りないだろうし、事実の羅列だけになってしまいがちだが、ここでは彼女たちの心の声も取り入れてコンパクトに上手くまとめている。
そして、やはり独身女性だけに男性とのやり取りも絡めている。
すーちゃんは勤めているレストランのマネージャー(井浦新)に仄かな恋心を抱いている。
まいちゃんには不倫関係の男性がいる。その彼が娘がおたふくだからと帰っていった後に、鏡に向かってプーッとふくれっ面をする表情は可愛かった。この彼女が私生活では、男っぽい性格で子供までいるというのが信じられない。
さわ子さんは、偶然出会った同級生とつきあうことになるが、彼から子供を産める証明書を貰ってきてくれと言われ想いが冷めていってしまう。
それぞれの恋は、それぞれの道筋を辿っていずれも破れていってしまうが、3人が等身大の女性を演じることによって、まるで隣のおねえちゃんを応援したくなるようになってしまうから不思議だ。
それでも、しがらみが無く、こうやってずっとつきあえる仲間がいるということは恵まれているのだと思う。定期的に会って、そこで他愛も無い話から愚痴まで何でも話せるから、少しはストレス解消になっているのだろう。
勿論ストレスは恋愛だけではない。
例を挙げれば、すーちゃんがレストランのアルバイト店員候補者を面接したときの、スーツ姿の男性(水橋研二)とのやり取り。
真面目に応募してきたのかと思いきや、その男性は家族がいる為早く正社員に上がることを望み、あまっさえまいちゃんや仕事をバカにした態度に出る。まいちゃんは「こんな面接、時間の無駄だ」と言うその男を、「私の時間が無駄でした」と追い返してしまう。イライラが募るよなあ。
それを見ていたオーナー(木野花)は、「店長としての自覚を持て」と厳しくすーちゃんをたしなめるが、その裏には嬉しさがあるような感じがして、ここにも人間の両親は息づいているんだなあと感動してしまった。その後、娘(吉倉あおい)のサークル活動の場所に連れて行って、問わず語りみたいなことを言っていたのが何よりの証拠。
隣にどんな人が住んでいるかわからなくなったと言われて久しい都会ではあるが、それでもこういう人間の繋がりが見えるのが嬉しい。
すーちゃんとまいちゃんが失恋したとわかった後での鍋のシーンで、まいちゃんが「サラダ出そうか」というのはどういうものかと思ってしまった。それ以上に、その後に「煮物もあるね」は、まいちゃんの不倫相手の彼氏に対する動揺と受け取られるが、サラダの時点ではそうは思えなかった。それも、物語の妙なのかな。
最後に、まいちゃんが“捨て去った人生”という言い方をしていたが、そういう風に考えるものなのかねえ。これまで総合職の営業ウーマンとして第一線で働いてきた彼女が、子供の為に家庭に(一時とはいえ)収まるということに、まだ実感が沸かないのは、何となくわかるような気がする。

遺体~明日への十日間

『遺体~明日への十日間』の映画は震災当時、釜石市の遺体安置所を題材とした石井光太のルポルタージュ「遺体 -震災、津波の果てに-」を基にしている。メディアでは殆ど伝えられなかったらしいが、震災当日は情報が混乱していたようだし、津波の被害は宮城県の方が大きかったし、震災翌日からは東電原発の水素爆発で報道の中心がそちらに移ってしまったから仕方ない面もあるのかもしれない。
映画は相葉の行動が中心とはなっているが、それぞれに活動する医師・下泉(佐藤浩市)や、正木(柳葉敏郎)、正木の助手の大下(酒井若菜)、葬儀社社長・土門(緒形直人)、そして市長(佐野史郎)をはじめとした市役所員の松田(沢村一樹)、平賀(筒井道隆)、及川(勝地涼)、照井(志田未来)の面々の活動を、群像劇風に描いている。
主要キャストには東北出身者もいるが、西田敏行は福島弁だし柳場敏郎は秋田弁がやはり抜けていない。東京出身の佐藤浩市の、不完全ながらも南部弁を話そうとしている姿勢の方に頭が下がった。文節によっては、まんま南部弁だったし。
ここでは、多くを語るまい。
恐らく当時の釜石の状況は、この映画のようであったのだろうし、ここは黙って観てもらいたいと思う。
映画としてはどうなのだろう。
監督は、脚本があるにも拘わらず、「自分の気持ちにうそをついて演技をするのはやめてください」と俳優たちの気持ちを最優先させて撮影を進めたらしい。
それが、安置所に入るとき靴を脱ぐ西田の行動だったり、志田未来は子どもの遺体を見た瞬間にくるりと背を向け、住職を演じた國村隼は読経の途中で声を詰まらせたりする。つくづく俳優になるには、感受性が豊かじゃないと務まらないと思う。
普段だったら鬱陶しく思われる相葉のお節介とも思える態度だが、ここでは逆にそれが上手く作用しているようだ。
彼が縦軸となり、右も左も、そして明日をもしれない地道な活動を続けていく人々が描かれるが、彼らは決して歴史の表舞台に立つことは無い。こういう無名の人々に支えられて復興も進んでいくし、極言すれば歴史も作られていくのだということを痛切に感じられる。

『ストロベリーナイト』

映画ストロベリーナイト、この作品が、姫川玲子シリーズの最終章だそうで、そうは言われてもドラマを見ていない俺にとってはそれほどの感慨も沸かない作品。あとは、映画が面白いかそうでないかだけ。で、冒頭で姫川のモノローグが流れる。
「17のとき、私は一度死んで生き返った。血と恨みを抱いて」とか。
意味がわからない。多分ドラマで説明されていたんだろうが、それを引きずるんだから嫌だよ。
ここで散々書いているけど、映画化するんなら、映画の中だけで完結してくれってこと。
それが一番わからなかったのが、玲子が牧田に一連の核心部分を聞きに行く場面。
牧田が、多分調べたんだろうけど、自分と同じ血が流れているということをわかり、それで二人がFUCKすること。
確かに、心理学的な分野では、ありえない設定で鼓動が激しくなるときは、疑似恋愛的な心理が働くことは昔から言われている。
しかし、それだけでは全然わからないのだ。
しかも、危いと言われていた中村獅童との間に子供を作ってしまった竹内結子である。
ああ、やっぱりな、という気分が無かった訳ではない。
やっぱり一番の欠点は、警察の汚職というか汚点に原因を求めている点だ。
その方が重厚感を与えられるであろうし、展開としても書きやすいだろう。
でも、その安易さが鼻につくんだよな。わかってしまう。
そして、結局は三浦友和が、一番カッコいいところをさらっていってしまう。
それはいいんだけど、そこまでの展開が長過ぎで、ぐだぐだしてしまっている。
“インビジブルレイン”なんて気取った副題がついているけど、ずっと雨の中での場面の連続で、観ている方としても、多少はうざったく感じてしまった。
アリバイ工作や、動機について、もっと掘り下げた作品は作れないものかねえ。
これじゃあ、表面的なことしかわからず、こんな作品で渋い、とか言う奴が出てきかねん。
表層をなぞっているだけの映画だよなあというのが感想です。

やる気のスイッチ

GN055_350A (2)私は、不思議なことに毎日、やる気のスイッチが違っています。あるときは、朝起きた瞬間から、あれもしたい、これもしたいと思って、必死で家事をこなすことができます。そんなときもあると思えば、あるときは、全く動きたくないと思って、家事を全くしないときもあるのです。

そのため、そのやる気のスイッチはどんなことから押すことができるのかと思ってみました。まず、体調が良いことがベストと思っています。体調が悪いときは、体を動かすことができないのです。

例えば、肩が凝っているとか、歯がいたくなっているとかなると、動くことによって、余計にその症状がひどくなると思うので、動くことを控えるようになります。

また、おきた瞬間に、雨が降っているときも、やる気のスイッチが少なくなってしまいます。雨になると、掃除をしようと思っても、スッキリとすることができないので、なんだか中途ハンパになってしまうと思って、掃除をする気持ちにならないのです。

渾身 KON-SHIN

原作の川上健一は青森県出身。青森出身者が島根、それも隠岐の島を舞台とする小説を書くのも面白い。そして隠岐の島といったら、田中美佐子の出身地じゃないか。昔は好きだったんだよなあ。
隠岐の島の古典相撲を扱ったということが珍しかったのか、この映画は結構マスコミでも取り上げられて、NHKの「おはよう日本」でも放映されていた。かつて島を捨てた男が、再び舞い戻ってきて、古典相撲を通じて島のみんなに溶け込もうとするプロット自体は、それ程目新しいものではない。
それと、この映画で初めて知ったのが、劇団EXILEという存在。舞台活動が中心のようだから地方にいると、興味が無い限りわからんもんな。歌も踊りもしないということでは、ジャニーズの生田斗真みたいなもんか。主演の青柳翔がそうらしい。初めて見る顔だ。
英明が結婚式をドタキャンしたのはわかったが、その理由が父親(高橋長英)との会話の中で、どうやらその父親が決めた結婚話に反発したもので、それにより恋人(中村麻美)と一緒に島を出て行ったものらしいが、逃げたままじゃ嫌だという理由で島に帰ってくる。
このとき、母親として顔を出していた女優を、どこかで見たことあると思って眺めていたが、エンドクレジットで真行寺君枝とわかった。すっかり、おばさんになってしまったな。
しかし戻ってはきたものの、島ではそこそこの地位にあるらしい父親の決めた結婚式を蹴ったということで、島のみんなはどこか余所余所しい。家が立派らしいことかrしても、多分父親は島ではかなりの影響力を持っている人物と思われる。その父親に勘当に近い扱いを受けているのだから、島民が余所余所しくなるのはわかる。
でも、それが、英明が相撲に打ち込むことによって人々の感情が融解してくるという過程がわからなかったのと、田舎でそんなに簡単に融和できるのかなあという疑問が湧き出て、それを結局最後まで引きずってしまった。撮影上でのミスも面白かった。
隆大介の座り位置が、紹介のときのショットと次の場面で変わったとか、水入り後に、万竜の右上手がかかっていたとか(前にはかかっていなかったのに)。
これはご愛嬌として流してあげよう。

『LOOPER/ルーパー』という映画を見て

未来の依頼者と契約して、送られてきたターゲットを撃ち殺す役目で、当然今の世界でも違法者である。しかし、世間一般に認知されているにも拘わらず、今の時代で取り締まられている様子は無い。報酬は銀の延棒。劇中、「ループを閉じる」という表現があった。30年後の未来から、30年後のルーパー自身を送り付けて殺させ、そのループを断ち切ろうとするもの。
着眼点は面白いと思った。未来の自分を現在の自分が殺すという設定の下で、その未来の人間が逃げ出したらどうなるんだろうというもの。
ところがブルース・ウィリスが出てきた途端、その劇は、大衆演劇になってしまう。このキャラクターの強さには負けてしまうね。
名作に多く出演しながらも、アカデミー賞では晩年に名誉賞しか与えられなかったケイリー・グラントを思い出してしまう。(ま、彼は、ノミネートだけはされているが)
さて、そうなる運命はわかっていながらも現在の自分のルーパーの仕事を成し遂げようとするジョーだったが、未来で悪の組織を吸収しながら勢力を拡大しているレインメーカーという人物がループを閉じ続けている張本人で、それを未来の自分が、現代で抹殺しようとやって来たことを知ると迷いが生じてしまう。
同時に、レインメーカーの正体を探ろうとしたジョーだが、それはループの仕事を果たさなかったということで、現在の組織から狙われる中でのものだった。
レインメーカーの正体は、観客にはすぐわかってしまう。ジョーが組織から逃げる途中で紛れ込んだ女性(エミリー・ブラント)の息子シド(ピアース・ガノン)だということ。そんでもって、突拍子もないのが、このシドが超能力者だということ。というか、ルーパーは、コインを空中に浮かせるくらいの能力は持っているのだが、彼の力はそれとは比較にもならない。
そのシドを、もうちょっとというところまで追い詰める未来のジョーだったが、悲しみのループを断ち切る為にはと、現在のジョーは自らを銃で打ち抜くことを選択する。
でも、自分を殺すことで、自分を巡る悲劇の繰り返しは避けられるだろうけど、未来に於いては犯罪王としてのレインメーカーが出現しないだけて、それぞれの犯罪組織は残り、つまりはルーパーもそのまま存続するんじゃないか?結局、何も変わらないということになると思うんだがなあ。
子供のシドを殺すのが一番すっきりすると思うんだが、そういう展開にしたらレイティングはつくだろうし、第一業界や世論が黙っていないんだろうな。『エクソシスト』にしても『オーメン』にしても、悪役は子供でありながら、その子供は劇中では死んでいないもんな。
そういう意味でも、中途半端に終わってしまったような気がする。